Special new!(2000.6.21)
カモノハシ・セレクションpart3

1999年11月から2000年3月までのカモノハシ通信の中から、個人的に「比較的よく書けてる…かな?」というのだけを選んでみました。この期間のカモノハシの特徴としては「暗い内容が多い」ということが言えます。今回セレクトしたのは主に僕の「主義・主張」が書かれたものです。
ここにあげたもの以外にも文化祭のことや武庫マラなどの長編カモノハシがいくつかあります。暇な方はどうぞ。
この中では「枠の中」ってのが自分では一番好きです、

●思い出シリーズ1
●オウムとは何か?
●許容範囲内の悪・オウムの続き
●アンケートと髪型
●祝・2周年
●枠の中
●器用・不器用
●自分から動くこと

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思い出シリーズ1 1999.12.11

 この間ふと気づいたことがあります。知らない間に僕の中で中学部時代の思い出がかな
り薄れてしまってるんです。かなり頑張らないといろんなことが思い出せなくなっていま
す。大学に入った直後くらいまでは「ついこないだまで中学生だったのに」って思ってい
ましたが、さすがに今ではもうそうは思えません。

 実を言うと僕も今年の夏にあらためて気づいたのですが、というか初めて知ったと言っ
てもいいでしょう。僕らが中3のときは水泳部は市内準優勝だったんです。今西、たくろ
う知ってた?たしか入賞したって記憶はあったんですが、準優勝だったなんてなんか意外
な感じがしませんか?それだけ順位とかにこだわってなかったと言うことでしょう。で、
リレーはどちらも阪神どまり。これは今年のチームと本当によく似てます。今年のチーム
も市内準優勝で、リレーはどちらも阪神どまりでした。優勝できなかったのは僕らのとき
以来、えーと、8年ぶりなんです。8年ぶりあってるかな?僕らの下から順番に思い出し
てみましょう。まずは井上の学年、けいた、稲垣、嶋川、沢井、山辺、タツタマン、です
ね。7連覇のあとだから8年ぶりであってますね。

 他にも深く考えれば考えるほど、今年のチームと僕らが中3の時のチームはよく似てま
す。なんというかうまい具合に波がありますよね。不思議なものです。

 さて忘れないうちに中学部時代の思い出をいくつか書いておきます。1つは温水プール
でのノータイム事件。これは僕しか覚えてないはずです。あれはたしかオールKGだった
かな?当時はまだそんなのなかったかな?僕が中1の冬か春の時のことです。僕はノータ
イムをしてしまいました。そして藤原コーチにすごく怒られたんです。その怒られ方とい
うのが大声でガンガン言われるのじゃなくて、低い静かで太い声で「おまぇ…、なにやっ
たかわかっとんか、えぇ?」みたいな感じで、当時13歳の僕には恐怖でした。そして最
後にお腹のあたりをごつんとグーで殴られたんです。これがけっこう痛かったからこうし
て今でも記憶にあるのでしょう。お腹のそこにゴンと重い石を落とされたような感じでし
た。とにかく「えらいことをしてもうたー!」ってそれだけです。

 でもああやってマジに怒られて良かったなと思います。だから僕は自分がコーチになっ
てからもノータイムに関してはかなり厳しめに対処してきました。そのたびに僕はあのと
き感じたお腹の痛みを思い出しながら、怒る相手の記憶に残るように怒りました。

 ノータイムをしてしまうのは誰にでもあることです。でもレースが終わってから「スイ
マセン、ノータイムでした」というのがいけないんですよね。ノータイムで怒られるとい
うことの背後には、責任に関する深い哲学があるわけです。任された仕事は責任を持って
やることや、もしも自分がミスってしまった場合はきちんと早く報告してどうにかするこ
とが必要で、例えば怒られるのを嫌って最後まで隠したりするのがダメなんですよね。

 さて藤原さんが怒ったことと言えばこの事件を忘れては行けません。それは「東中(ト
ンチュー)財布なくした事件」です。これは僕の世代ならみんな覚えてるでしょう。あれ
は僕が中1から中2にあがる春休みの千代田合宿のときでした。(そういや千代田での合
宿はそのときから始まったんでしたね。)3日目の夜、僕と同学年の東中というのが財布
をなくしたと言い出したんです。しかも「どうやらバスケ部のやつにとられたらしい」っ
て言ってるんです。でも結局自分が持ってたんです。事件は解決したのですが、そのこと
でバスケ部ともめたりなんかして僕らはなかなか寝る時間になっても寝られなかったんで
す。そのことで藤原コーチが激怒しました。

 先に東中(トンチュー)のことについて触れておきます。彼はその年度のシーズンオフに
突如水泳部に入部したきました。もともと体も小さく、運動はまるっきりダメと言っても
いいくらいのヤツでした。後に僕は彼と一緒にJHCをやることになります。この合宿で
はもちろん僕らと同じメニューができるわけがなく、別メニューでした。(そういやカツ
もこのときは別メニューだったねぇ。)その後彼はいつ頃か忘れましたが、かなり早いう
ちに水泳部をやめました。もともとそういうタイプではなかったのです。ちなみに大学生
になってからは関学のボランティア団体「ヒューマンサービスセンター」を作り上げた中
心的メンバーとして有名になりました。この「ヒューマンサービスセンター」について、
また僕個人の彼に対する感情に関してはコメントを控えておきます。ということです。

 さてさて夜、僕らがふとんを敷き終えて(僕とトンチューは同じ部屋だった。ちなみに
同じ部屋には豪さんもいたような気がします。他は忘れた。今西いたっけ?)電気を消し
て、さぁようやく寝られるぞ!って時に、突如、藤原コーチが現れました。

 僕があんな怒った藤原コーチを見たのは後にも先にもあのときだけです。とにかく怖か
った。「くぉらぁトンチュー!おまぇなに考えてさらしとんのじゃー!!」って感じです。
「他の奴らはなぁ、おまえと違ってきつい練習して疲れてて早く寝たいんじゃー!それを
わかっとんかー!」って。このときその場にいた全員が「それなら早く寝かせてよー」っ
て思ったはずです(笑)。そして藤原コーチは手近にあった枕をトンチューにむかって思い
っきり投げつけたりなんかして、とにかくこれ異常ないくらい怖くトンチューをしかりつ
けました。時間にして10分程度だったと思いますが、その場にいる僕らには1時間くら
いに感じられました。

 いやーあれは怖かった。僕にはとうていあそこまで怖くなれません。でも誤解してほし
くないのですが藤原さんはけっして悪い人ではありません。僕らにはちょっと想像できな
いくらい、僕らのことをよく考えてくれてたコーチだと思っています。僕は当時知らなか
ったのですが、その合宿でプールに屋根がついてなかったことに関して、蝦名先生らを相
手にすごく激怒してくれたそうなんです。どうやら最初の話では屋根まで完成してる予定
だったらしいのです。なのに実際に屋根はない。3月の寒空の下、(一応温水だったので)
湯気の上がるプールの中必死に泳ぐ僕らに申し訳ないと言う気持ちがあったのでしょう。
普段はとっても大人しい、ちょっと太めの亀仙人みたいなのどかな感じの人でしたが、実
はものすごくアツイ人だったんです。僕はこの藤原コーチの影響もたぶんかなり受けてい
るはずです。特に練習メニューに関しては。僕を呼吸系の達人にしたのはまさに藤原コー
チですし、僕のメニューにピラミッドやラングバスターがあるのは藤原さんがよく使って
た練習だからです、たぶん。

 さてさて同じそのときの合宿で、小西や三好が文堂先生に怒られたのを今思い出しまし
た。とりあえず今日はこれを最後の思いで話にしときます。僕はそれまで文堂先生が怒る
のを見たことがありませんでした。今でもそんなに怒るタイプの先生ではないですが、当
時は僕は文堂先生が怒るのは3年間のうち2回くらいしか見たことありませんでした。そ
のうちの1回です。

 なんで小西らが怒られたのかというと、靴下をはいてスリッパを履いた状態で足をプー
ルにつけて遊んでいたからです。なんでそんなことをしてたのかは不明ですが(たぶんも
のすごく温く感じたからおもしろかったのでしょう)、それを見た文堂先生が「なにしと
んねん!」って怒りました。「やっていいこととあかんことがあるくらいわからへんのん
かぁ」って。ね、そんなこともあったでしょ?覚えてる?

 頑張って思い出せば、いろいろと芋づる式にいろんな記憶がよみがえってくるもんです
ね。ではまた次回。
     

オウムとは何か? 1999.12.11

 村上春樹の『約束された場所で』を再読しました。これは現役あるいは元のオウム信者
へのインタビューを村上春樹がまとめたものです。地下鉄サリン事件から2年たってから
その被害者の人にインタビューした『アンダーグラウンド』という本の続編と言っていい
と思います。どちらもものすごく長い時間をかけて1人1人にていねいにインタビューし
たことがよくわかる素晴らしい著作だと僕は思います。

 その『約束された場所で』のあとがきで村上春樹はこう言っていて、僕はそれに強く共
感します。(前にもとりあげましたが。)

「僕はオウム心理教の事件にしても、神戸の少年Aの事件にしても、社会がそれに対して
見せたある種の怒りの中に、なにか異常なものを感じないわけにはいかないんです。人間
は自分というシステムのなかに常に悪の部分を抱えて生きているわけですよね…」

 最近僕はテレビ番組を見ててもイライラすることがよくあります。テレビの中では「悪」
というものを簡単に規定して、それに対する「健全正義たる我々」という立場を前提とし
て作り上げていますよね。そして「悪」を排除すれば社会はよくなると本気で考えている
ようです。どんな種類の問題でも本当に自分たちの問題としてとらえられていません。

 ここで「悪」について深く考えることはさけますが、でも大事なのは「悪」というのは
人間であれば誰だってその心の中に潜んでいるはずだというです。

 健全な社会というのは「悪」を排除した社会ではなく、社会の中にうまく「悪」が取り
込まれている社会のことだと思います。今現在、日本というシステムは「悪」を排除しよ
うとばかりしていて、それを自分たちの問題としてこれからどう「悪」とつきあっていく
のかという視点が全く欠けています。村上春樹が本の中で言っているのは、日本のメイン
システムからはずれた種類の人たち、つまり「世間にあわない人たち」のための受け皿を
真剣に考えなければいけないのではないか?ということですが、それも同じです。どうあ
がいたって社会から「悪」や、「世間とあわない人」を排除することが出来るわけがない
のです。だからそこに有効な社会的受け皿が必要なのです。でも今の日本にはそれに相当
するものがありません。「オウム的なるもの」以外。

 だからオウム真理教をはじめとするカルトというのは、そういう人たちの受け皿として
非常に有効に機能していると言えます。本の中の信者・元信者の人たちはみな、オウムが
起こした事件をそれと認めながらも、でも「オウムに入って自分にとってはよかった」と
感じているのです。これは考えてみたら当たり前の話で、オウムに入る人たちはほとんど
みんな「現世では生きていけない」と自分で決断した人たちですよね。だからその時点で
の社会的地位やお金や家族やそういうのをみんな捨てて、いわば現世で「死んで」からオ
ウムに出家してきてるわけです。なんでかというとオウムに入ると楽だからです。心の底
から安心できる。もう悩まなくていい。そこには明確な回答が完璧に用意されていたから
です。疑問に対して、納得できる答えが即座に返ってくる。そういう点でオウムは実に巧
みな技術を持っていました。

 しかしそれは言うまでもなく非常に危険なことです。簡単にすんなりと納得のいく説明
というものには、だいたいにおいて危険が含まれています。この辺は普通のバランス感覚
をもった人ならば気がつくのでしょうが、やはりそうじゃない人(というのが結局世間と
あわない人ということになるのでしょうが)もたくさんいます。

 だって若い人ならみんな悩むことは一緒じゃないですか。僕はなんのために生きている
んだろう?こんなことしてても意味ないんじゃないか?とかいろいろそういうことを誰だ
って真剣に考えます。でもそこで普通の人は自然な感情の流れにバランス感覚が働いて、
つまり曖昧さの中で、自分をつくりあげていくわけでしょ?だけど中にはそうじゃなくて、
簡単にふらーっとあっちの方へ行っちゃう人が現にたくさんいるわけです。納得できる答
えを求めて。でもそこには本当は簡単に納得できる答えなんかあるわけがないのです、本
来。

 なぜなら現実というのは、もともとが混乱や矛盾をたっぷり含んだものであるからです。
そこには理由の説明できない不可解なことや理不尽なことがたくさんあるわけです。それ
が現実であって、そこから混乱や矛盾を取り去ってしまったら、もはやそれは現実ではな
くなっているのです。

 でも僕の目から見て社会の多くの人たちはその極めて当たり前の事実を認めていないよ
うに見えるのです。僕が社会に対してなんとも言えない怒りを感じるのはそういう文脈に
おいてです。オウムに対して社会が見せる異常なまでの怒りがそれを証明しています。も
しくはワイドショーのキャスターがそれを証明しています。

 だめだ、今日こそはついに「このこと」をうまく書けるかと思ったのですが、どうもま
だうまく書くことが出来ません。どうしても、僕の中にある「言いたいこと」が言葉にな
ってでてきません。僕の中にあるイライラという糸くずの固まりをときほぐすことができ
ません。

 僕は「オウム真理教」についてはサリン事件以来ずっと一貫して興味を持っています。
なぜならそこには今の若い世代と今の日本を理解するための大きなカギが潜んでいるよう
に思うからです。(ずーっと前の「一人語り」にオウム入信のプロセスと就職活動の類似
点について書いたこともありました。)本能的にそう思うのです。だからそれを他人事と
してとらえることができません。でもオウムについてのマスコミが流す情報はすべてあま
りに一面的で、本当に重要なことが含まれていません。そして決定的に他人事です。本当
は村上春樹みたいにもっともっと深く深いところまでじっくりと考えなければいけない問
題であるはずです。そして何らかの対応策を社会が生み出さないことには日本の将来にと
って致命的な問題となりうると思うのです。「オウム新法」と呼ばれる団体規制の新しい
法律ができましたが、ああいうことでは何の解決にもなりません。「オウム的なるもの」
は僕らの日常生活の陰に常に潜んでいるように思います。その距離は僕らが考えているも
のよりもかなり近いのではないかとも思います。

 そして僕をイライラさせる決定的な事実は、僕の感じているような危機感をほとんど誰
ともわかり合えないということです。なんとかわかってもらいたいのですが、そのために
は僕の言葉はつたなすぎます。これじゃまるで悪夢のようです。

    

許容範囲内の悪・オウムの続き 1999.12.12

 僕が水泳部のコーチとして中学生を指導するときに心がけていたことに、僕自身が強固
な「枠(わく)」になろうということがあった。(前にも書いたことがある。成功してたか
どうかはともかく。)これは彼ら中学生を「枠にはめよう」としていたということではな
い。子供が大人に成長するためには一度そういう枠(それは主に常識と呼ばれるものであ
る)を与えてあげて、そこにぶつかることによって自分と社会との関係やバランス感覚、
そして自分というものの認識をすることが必要だと思うからである。思春期の少年にとっ
て、常識や社会通念(それらは主に大人によってつくられているものである)がたまらな
く鬱陶しくなる時期がある。俗に言う反抗期ってやつだ。でもこれは社会と自分との関係
を知る上で非常に重要な通過儀礼である。だからそこには彼らがぶつかっていけるだけの
強固な確固とした「枠」が必要なのだ。しかし問題は世間一般を見渡したとき、その「枠」
が以前ほど強固でなくなってきていると言うことである。

 原因はいろいろあると思うが、一つには「ゆとりの教育」などと言ってはねじ曲がった
意味での「自由」を子供達に認めすぎているということがある。ここ数週間の最近になっ
てようやく「ゆとりの教育」に対する批判がかなり大きなムーブメントになってきたが、
それはもはや手遅れであると言ってもいいだろう。「ゆとりの教育」とは言い換えれば
「枠」を取っ払うことで、「個性」とか「自由」を尊重しようと言う考え方のことである。
これは完全に間違いだ。成長というものはぶつかるものがあって、つまり試練があっては
じめて顕れるものである。すもうのぶつかり稽古のように、あるいは稲を育てる際に一度
完全に水を抜いて根を成長させるのと同じように、一度厳しいところを通過させないこと
にはそこには実のあるものは何も生まれない。

 さてここからが本題。僕が言いたいことに入っていくのだが、「枠」があってはじめて
生まれる非常に大事な概念がある。それは「許容範囲内の悪」である。人は皆誰でも少年
時代を通じてこの「許容範囲内の悪」を学びながら成長しているのではあるまいか?どん
な人間だって「私は一切悪いことをしたことがない」なんて言える人はいないだろう。特
に少年時代、親の目を盗んではなにか悪さをしてみたり、先生の目を盗んでは授業中に友
達と遊んだりと、そういうことは誰しも経験があることだろう。だけどナイフで人を刺し
たりしたことがある人はそうはいまい。つまり「許容範囲内の悪」という概念がちゃんと
あったということだ。そして「許容範囲内の悪」という概念を形成するために必要なのが、
「枠」であることは言うまでもない。簡単に言うときちんとしかれる親があって、子は
「許容範囲内の悪」を覚えるのだ。

 ここで誤解してほしくないのだけれど「許容範囲内の悪」というのはやっぱり悪なので
ある。だけど少年は悪いこととわかっていながらそれを行うのだ。ここに重要な意味があ
る。だからできるだけ親や先生に見つからないようにしようとする。なぜなら見つかると
怒られることがわかっているからである。「許容範囲内の悪」の概念に「枠」が必要だと
いうのはそういう文脈においてである。

 「ナイフを持たさないのではなくて、ナイフを持っていても大丈夫な子に育てる」こと
が今の日本には欠けていると思う。これはつまり大人の側が、子供が正面からぶつかって
きても受け止められるだけの強固な「枠」を持たずに、うまい具合に逃げようとしている
ということである。話が抽象的すぎて申し訳ないが僕が言いたいのは、そういう「弱い」
大人が「許容範囲内の悪」のぼやけてしまった子供をつくりだしてるのではないかという
ことである。

 さきほどの例で言うと「ナイフを持たさない」ということは「許容範囲内の悪」を認め
ないと言うことである。逆に言うと「許容範囲内の悪」という概念が弱くなってきている
から「ナイフを持たさない」方向にいっているのだと思う。しかしそれが今の文部省や社
会、マスコミが「善し」としている方向だ。僕はそこに大きな危機感を感じる。

 「ナイフを持たさない」方向と「枠をとっぱらうこと(=ゆとりの教育)」の方向性は
実は同じである。

 早いうちに「強固な枠」を再建しないことには事態はとんでもない方向へ行ってしまう
と思う。いや、もはや「強固な枠」をつくるだけのパワーは日本にはないのかも知れない。

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 下のオウムに関する文章でも書いたが、社会から「悪」を排除しようとする方向性は僕
は間違っていると思う。「悪」を排除できるわけがないのだ。それを社会の中でどうにか
うまく処理していかないことには健全な社会は生まれない。

 これは例えば地域住民によるオウムの立ち退き運動で、「オウムをそこから立ち退かせ
ることで問題の解決になるのか」ということと似ているが、僕が言いたいのはもっと深い
ことだ。人間の精神についてである。

 オウムを気味の悪い笑い話のように「あっち側の問題」として考えるのではなくて、そ
れを「こちら側」の問題としてとらえられるだけの強い価値観が今の日本にはあるのだろ
うか?

 「悪」を排除しようという動きは、それを包括できるだけの強い「枠」を持たない今の
日本の現状を顕著に表していると思う。

 誤解を恐れずに言うなら、オウムに対して異常な怒りをしめす「こちら側」の魂の闇の
部分と、いわゆる「あちら側」の魂の闇の部分は、深い井戸の底で繋がっていると思うの
だ。だからこそある人々はきつく目をつぶり、またある人々はそれを排除すべく異常なま
での怒りにかられるのだ。でもそれはもちろん絶対に排除できない。繋がっているからだ。

 「こちら側」の問題として自らしっかりと考えないといけない問題なのだ。本当は。

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 今の日本が向かっている方向が僕はどうしても気に入らない。
 それにしても抽象的な文章だなぁ。何の説得力もないや。

     

アンケートと髪型 1999.12.15

 ご承知の通り、僕が講師を務めていた浜学園では生徒のアンケートによって僕ら講師の
時給が決まるシステムになっています。本当は生徒のアンケートともう1つ、講義外での
貢献点というのもあって、例えばテストやテキストの作成をすることでも時給が上がった
りしますが、ここではとりあえず置いておきます。実際に時給決定の要因のほとんどはア
ンケートでした。

 アンケートの結果、講師に点数がつけられます。この点数が60点のときと100点近
い場合とでは時給はもう全然(実に3倍以上)違います。僕の場合だとだいたいアンケー
トの点数が60点なら2800円くらい、これが95点とかだと6000円以上いっちゃ
います。ちなみに僕の最高時給記録は6200円でした。持っていたほとんどのクラスで
アンケートがすごく良くて、しかもテストを作りまくってたときのことです。

 と、いうわけなので、講師はどうにかアンケートの点数を良くしようと努力します。こ
れにはいろんな方法論があると思うのですが、僕が4年間やった結論ではきちんと厳しく、
それでいてやさしく、そして分かり易い授業をするということが一番でした。当たり前と
言えば当たり前です。でも相手が子供だからと思って、ただおもしろおかしく、人気取り
ばっかりやっててもアンケートではなかなか良い点が出ません。またそういう方法では絶
対にパーフェクト(そのクラスの生徒全員が最高の評価をつけること)は出ません。やっ
ぱ厳しく、意地でもけじめをつけさせるのが大事です。(でも厳しくやる場合、特定の生
徒ばっかりに厳しくしちゃうとその子のせいでパーフェクトがでないということもあって、
これまた難しいんです。だって騒ぐ子ってのは決まってるわけですから。)

 あとはやっぱ「わかり易い授業」ということにつきます。特に下位クラスの場合だと、
生徒に対して「こんくらいはわかってるだろう」と思わないことが大事です。下位クラス
の場合どんなに丁寧に授業をやったってわかってない子というのは必ずいるんです。そう
いう子をわからせるためにはとにかく「親切・丁寧・キチンキチン」とやることしかない
んです。場合によっては個人的に説明してあげることも必要です。そのせいで授業のスピ
ードが落ちても構いません。下位クラスの場合は。でもこれが上位クラスになると、ある
程度のスピードが要求されるわけですから少々わかってない子がいても構ってられません。
この場合は「わからない自分が悪い」と思わせるか、「わかった気にさせる」という方法
を使うしかありません。でも上位クラスといえどもやはり基本は「丁寧な説明」というこ
とになります。あんまり欲張ってレベルを上げすぎないことも(僕がやっていた小5のS
クラスなんかでは)注意していました。

 ただぶっちゃけた話、アンケートで良い点を出そうと思ったら、説明しやすい事柄を主
に扱って、理解しにくい話をやらないことです。つまり難しすぎるのはパスするってこと
です。これははっきり言って卑怯な方法ですね。僕もときどきやってましたが。(ただ逆
に欲張ってギリギリ限度いっぱいのところまで教えるというのは生徒にとってもマイナス
になることが多いんです。)

 っとさて、ここからが本題なのですが、このアンケート。授業の内容とかとは別にいろ
んなジンクスとか傾向があったようにも思います。僕の気のせいだったのかも知れません
が。それがタイトルにもある「髪型」との関係です。

 僕の印象では、髪が長めのときはアンケートが良くて、散髪した直後とかで髪が短いと
きはアンケートが今ひとつだったように思うのです。なんとなく。これは僕の想像なので
すが、小学生くらいの子供にとっては「長いめの髪の先生」の方が「サッパリした髪型の
先生」よりも頭が良さそうに思えるんじゃないでしょうか?また「サッパリした髪型」
「長めの髪」「はげ」の順番に偉いという風に感じてたりして。けっこうあり得ると思え
ませんか?

 実際に僕は、散髪してサッパリした状態で教室にはいると「先生、前の髪型の方がよか
った」ということを言われたことが何度もあります。「前の髪型」ってのは僕からしたら
鬱陶しいくらいの髪の長さで、ちょうど真ん中から分けていて、おでこ丸見え状態の髪型
のことです。自分では「かっこわるい」って思ってる髪型。でも生徒からしたらそっちの
髪型の方になんらかの「憧れ」みたいのを感じてたようです。たぶん、おそらく。また散
髪した後に「子供みたいな髪型やな」って言われたこともあります。そんなわけで上に書
いた印象が生まれたわけです。

 とは言っても「髪型」でアンケートしてるわけではないですからね。たまたまでしょう。

 ちなみにアンケートに関する印象ということでいうと、(アンケートは基本的に2か月
に一度あるのですが、)「あーあ、今回のアンケートはあかんやろなー…」ってときに高
得点がとれていたり、「オッケー、今回はバッチシやろー!」ってときは逆に今ひとつの
結果だったりするということです。これは毎回不思議でした。

 僕が浜学園のアンケートから学んだことは「全員から好かれるのはムチャクチャ難しい」
ってことです。もちろんアンケートは「好き・嫌い」のものじゃないんですが、それでも。
だからクラブでも「何人かには嫌われてもしかたないな」と思えていたのかも知れません。
本当は全員から好かれたいんですけどね。

   

祝・2周年 1999.12.18

 えー、ひさしぶりに表紙をリニューアルしました。そして2周年です。

 もともとこのHPは97年の12月17日に行われた関学中・高水泳部OB会の写真を
載せるという目的でスタートしました。当時たまたま僕がHPづくりというのに興味を持
っていて、それがいいきっかけになりました。一番最初の頃は「ホームページ・ビルダー
2」っていうソフトの体験版で作っていました。でもこの体験版は30日間しか使えなか
ったため、その後今の「ページミル2」というのを買ってそれを使うようになりました。

 この2年でずいぶんインターネットが普及しましたね。これからももっと普及していく
ことでしょう。97年の12月の段階ではみんなほとんどインターネットとは無関係な生
活をしていましたね。今でもよく覚えているのですが、その97年12月のOB会の後、
僕や井上や高見や小谷ら何人かで西宮北口にピザを食べに行きましたね。そのときに杉垣
が「メールってなんですか?」って真剣に聞いていました。当時は「e-mail」と「電子メ
ール」、「インターネットメール」とかいろいろとメールに関する呼称があって、それで
混乱する人も多かったのではないかと思います。今でもそうかな?でもとにかくそんな杉
垣をはじめ今やメールと無関係な大学生の方が少ないくらい、メールやインターネットは
普及しました。大学もそれに併せてパソコンの数を増やしてきました。

 まぁとにかくこれからもどうぞよろしく。

 3周年、4周年となっていくうちに一体どんなメンバーがこのHPのまわりに残り、ま
た去っていくのかということにけっこう興味があります。

 ちなみにこの2年間では…ほとんど変化してないな。ちょくちょく増えてるかな?

   

枠の中 2000.1.22

 僕はよく「枠」というものの重要性を書いています。子供を指導する上で大人に必要な
のは彼らを覆う「枠」になることだと。「枠」というのは大人が作り出した常識のような
ものであって、子供が本当に成長するためには、そういう「枠」にぶつかる必要がありま
す。「枠」にぶつかって初めて子供はいろいろと考えると思うんです。社会と自分との関
わり方・関係、何が正しくて正しくないのか、自分の評価、自分の力、などなど。だけど
最近の社会の風潮として「枠」を取り外そうとしているのではないか?と。「自由」とい
う言葉の勘違いが大きな問題になりつつある今、「枠」が取り外された中で育ってきた子
供達の事件も目立ちはじめています。親が「枠」になっていないパターンが多いですね。
「ゆとりの教育」などと言っきた文部省の方針にも問題があります。「地域ぐるみの子育
て」というのが完全に死語になっている今、「枠」として機能するのはもはや親と学校し
か無いのに…。

 「枠」というのは強くなくていけません。子供にぶつかってこられて簡単に壊れてしま
うようなのでは全然だめです。だからもちろん「枠」になるということはとてもキツイこ
とだと思います。だけど少なくとも親だけは「枠」として機能しないことにはどうしよう
もないと思うのですが…、浜学園の講師をやっているとき感じたことは、多くの親が全然
「枠」として機能してない、もしくは「枠」になることを放棄しているなということでし
た。特にレベルの低い方に行けば行くほどそう感じました。

 と、言うことを僕はよく主張しています。主にコーチをしてきて感じていたことでした。
コーチである以上僕は「枠」にならないといけなかったからです。僕はそう思っていまし
た。要は「悪いことをした子には心を鬼にして怒らないといかん!」ってことです。

 しかし実はコーチというのは(ひょっとしたら僕だけかも知れませんが)「枠」である
と同時に、選手(というか子供ですね)と同じ「枠の中」の存在でもあるんですよね。簡単
に言うと「たまには子供と一緒になって悪いこともやっちゃうよん」ってことです。この
辺が先生との最大の違いであり、コーチの特権とも言えるトコなんです。「枠」の中の子
供というのは悪いことをして見つかると「怒られる」からそこで勉強します。「許容範囲
内の悪」を学んだりします。子供の頃はたまに夜遅くまで遊んだりすると「親から怒られ
やしないか」ってビクビクしますよね。でも僕も実は(コーチとしても)同じようにビク
ビクすることがよくあるんですね。「(彼らの)親から怒られやしないか」って。

 正確に言うとコーチとして彼らに「ちゃんとした許容範囲内の悪を教えたい」ってこと
もあります。イイ子ちゃんよりも、ある程度ワイルドな人の方がいいですからね…と僕は
思ってますからね。

 でもそれよりも「僕も一緒になってワクワクした〜い!」てな気持ちの方がちょっとだ
け強いですね。「立入禁止」って書いてあったら「入りたーい!」ってことです。?。具
体的にどういうことかというのは書かないですけど。

 でもなんや言ったって僕が本当に悪いことするわけないですからね。子供にお酒飲まし
たりタバコ吸わしたりすることはないですからね。その辺の社会的信用は同年代の友達の
親の間では(たぶん)あります。高校時代とか夜遅くまで友達や後輩と遊んでいても「
ロさんと一緒なら安心
」という評判を数多くのお母さんから聞いたような気がします。問
題は今の生徒の親からの社会的信用なんですが…。でも本当に僕と一緒にいる限りホンマ
に悪いことをすることは絶対にないでしょう。絶対に許さないだろうし。だからやっぱり
「許容範囲内の悪」の伝道役ですね。

 と、まぁコーチというおもしろい立場についての文章でした。
    

器用・不器用 2000.3.6

 僕は器用な人間ではない。そんなの見ればわかると思うのだけど、中にはそう思わない
人もいるらしい。そういう人はたいてい僕の表面だけを見てそう言っているのだと思う。

 僕は器用じゃない。だけど趣味はたくさんある。こういうHPを作ったり、ピアノを弾
いたり、ギターを弾いたり、写真を撮ったり。だけどこれらは全部、僕が興味を持ってい
るだけであって、僕がそれを上手という意味ではない。もちろん。僕は器用なのじゃなく
て、ただいろんなモノに興味を持ち、実際に試してみるのが好きなだけなのだ。

 例えば、薄々気づいてる人も多いと思うけど、僕は写真を撮るのが下手くそだ。確かに
僕はたくさんの写真を撮ってきたけど、けどよく見れば(よく見なくても)そのデキは全
然上手じゃない。偏差値45ぐらいだ。だけど僕は写真が好きなので、性懲りもなく撮っ
ている。全然器用じゃない。

 僕は自分が器用だと言われるのが大嫌いだ。「器用だね」なんて言われると、自分の生
き方そのものがすごく汚らしいものに思えてしまうからだ。逆に言うと僕は「器用」な人
があんまり好きじゃない。ここで言う「器用」の意味は、技術が優れているという意味で
はなくて、「生き方」が「器用」だという意味だ。

 例えば試験の前だけ友達を作ったりとか、自分のミスを巧妙に人のせいにしたりとか、
自分で動かず人を使っちゃおうとか、楽して儲けようとか、人を騙して自分だけ楽な方を
選ぶとか、そういうことはしたくないし、そういうことをする人とは僕は友達になりたく
ない。僕はアルバイトとか就職活動とかで(わずかなものかも知れないけど)社会と関わ
った上で思ったのは、世の中そんな人ばっかだということだ。

 そりゃ確かに僕だって試験前に知らない人のノートのコピーをもらって使ったこともあ
ります。そういう自分はかなり嫌いです。できることならそういうことはしたくない。他
にも自分でイヤだなと思いつつ「器用な」生き方を選んでしまった場面も何度かあります。
それは認めなければいけないでしょう。

 だけど僕は不器用でも誠実に生きていきたいと思う。

 器用じゃないから回り道をしたり、違う道に迷い込んだり、そういうことはたくさんあ
るかも知れないけど、そういう経験の1つ1つが自分の財産になるのだと思う。

 最近、器用・不器用について思うことが多いので少し書いてみました。この文章を読ん
でもわかるように、やっぱ僕は器用じゃないです。

    

自分から動くこと 2000.3.18

 最近になって僕のまわりでも自分のホームページを開設する人が増えてきました。とて
も良いことだと思います。なんでもそうだけど、興味のあることにチャレンジすることは
決して無駄にはなりません。「どーせたいしたことできねーし」と勝手に思いこんで自分
の枠を自分で作っちゃうよりかはよっぽどいいです。

 でも最近の若い人(なんて書くほど僕は年を取っていませんが)は「形」から入ることが
多いように思います。それは言い換えると「与えられることになれている」ということか
も知れません。きつい言い方をすれば、環境があって初めて動き出すことができる、とい
う風に思います。

 水泳部の練習でも感じていたことなのですが、今の中学生は「まわり(の雰囲気に)に乗
せてもらう」のはできても、自分から「まわりを乗せる」ことはとても苦手なようです。
チームの雰囲気を率先して盛り上げる人がなかなかいません。逆にチームの雰囲気を盛り
下げるのが得意な人はたくさんいます。こんな書き方すると、すごくヤな感じですが。

 うちの中学部水泳部の場合は僕らコーチがいたからそういう面が育っていないのだと思
います。試合でも練習でも、よく見れば一番最初に盛り上げるきっかけを作ってるのは実
はコーチだったりするわけです。

 自分から盛り上げるのが苦手な人はパイオニアにはなれません。パイオニアってのは先
駆者って意味です。人に先駆けていろんなことにチャレンジする人のこと。パイオニア精
をもつことが果たして重要なのかどうかは知りません。でも、いっつもいっつも人のや
り口を見てから自分にできそうなら始めるのとか、何かやりたくてもまわりに自分と同じ
様な人がいないからできないとか、そういう生き方は僕から見ればあんまり楽しくないよ
うに思います。

 「何でも人と一緒に頑張る」と言えば聞こえは良いですが、言い換えれば「人と一緒じ
ゃなきゃ何にもできん」ってことになります。もちろん人間は一人では生きていけません。
だけど自分から動き出す勇気は必要です。僕は自分から動き出さないで、人の動きを待っ
てから動き出す人があまり好きではありません。そういう「器用」な生き方をする人が最
近は多いように思いますが、そういう人たちは失敗したときに「痛み」を感じない分、い
ろんなことに鈍感になっていくのだと思います。

 自分から動き出せる、そんな人が増えてくれればいいなと思います。そして自分から動
き出して、まわりの人を乗せることができるようになれれば最高です。